「か、可愛くないです……」
俯きポツリと零すと、先輩は黙ってしまった。
どうしたのかと顔を上げると、そこには少しだけ怒ったように仁王立ちする姿が。
「凜ちゃんは可愛いの! 自信持ちなよ、少なくともボクは可愛いって思うから」
そう言ってまた頭を撫でる。その温もりに、じんわりと心がほぐれていく。満足したのか、先輩が手を引くのを名残惜しいと思ってしまう。
「ふふ、やっぱり先輩はいい人です。みんな近付くな、なんて言うんですよ? こんなに優しいのに」
誰もが『ヤバい人』なんて口を揃えていたけど、とんでもない。噂が無意味なものなんて、私が身に染みて分かっている。それを間に受けようとしてしまった自分が悔しい。
「ん~……どうしてだろうね。ボクが近付くとみんなすぐ逃げてっちゃうんだ……何もしてないのに」
しょげる先輩が切なくて、つい手が伸びてしまった。さっき私がしてもらったように、柔らかい髪を撫でる。いつもなら眞鍋さんや女子にしかしない行動が、先輩相手だと自然にできてしまう。
「先輩は怖くないですよ。少なくとも、私はそう思います」
また先輩のマネをしてみる。すると先輩笑ってくれて、ほっと胸を撫で下ろした。
誰だって、自分の意思とは関係の無い見方をされてしまうものだ。自分の望むものを勝手に求めて、それがどれほどの重荷になっているかなんて考えもしない。
そして期待を裏切られると、途端に離れていく。
先輩も同じなんだろうか。そうであれば、分かり合えるかもしれない。私を、私として見てくれるかもしれない。
ダメだと思いながらも、期待は膨らんでいく。
おそるおそる、私は校門から顔を出した。不審な動きをする私に、いつもなら声をかけてくれる人達も遠巻きに見ている。(先輩は……いない、よし!) ささっと校門から飛び出し、昇降口まで走る。 できるなら、今は先輩に会いたくはない。いや、会いたいけど、まだ心の準備ができていなかった。 思い浮かぶのは昨日の先輩の、瞳。『それとも、『俺』がいい?』 そう呟く先輩は、男を感じさせた。 カッと赤く染まる頬に、私は頭を振って熱を追い出した。 そして、昨日のことを思い出す。 昨日は眞鍋さんからの電話の最中に、みっともなく泣いてしまった。それでも眞鍋さんは、何度も相槌を打ちながらちゃんと話を聞いてくれる。その声音が優しくて、私は初めて友達ができたように感じたんだ。 今までは、親しくしてくれてもどこか壁を感じていた。でも、昨日の眞鍋さんにはそれがなくて、恥をかかせたといってもいい私に真摯に向き合ってくれる。 嫌いになったのではないか。 そう尋ねる私に、眞鍋さんは『逆にサッパリした』と笑う。 あの後、数人の生徒が直接謝りに来たらしい。『ごめん』と頭を下げる生徒に、眞鍋さんは笑顔で『一昨日きやがれ』と追い返した、そう自慢げに言う。 知らない眞鍋さんの一面に、私も自然と頬が緩んで声を上げて笑ってしまった。 眞鍋さんも一緒に笑って、本当に楽しい時間だった。 そして今日、先輩に会う勇気が出なかった私は逃げの一手に出る。もう昇降口は目前だ。(いける……!) そのままの勢いで靴箱に向かうと、そこには仁王立ちした先輩の姿が。 私は寸でのところで急ブレーキをかけ、呆然とその姿を見つめる。「凜ちゃん、おはよう!」 笑顔のはずなのに、何故か冷や汗が止まらない。 言い淀む私に、先輩がずいっと顔を近づけた。「昨日はいきなり帰っちゃうんだもん。ボク、心配してたんだよ?」 その表情はいつもの可愛い先輩だ。でも、目が笑っていなかった。
私はなんとか家に辿り着き、力なく『ただいま』と室内に声をかけた。すると、奥からお母さんがパタパタとやってくる、いつもの風景だ。「凜くん、おかえり~」 その声を聞いて、私はほっと胸を撫でおろす。安心したからじゃない、お母さんの機嫌がよかったから。「聞いてよ凜くん、お隣の佐藤さんがね、凜くんを褒めてくれたの!」 ぱあっと花が咲くように笑うお母さん。私は曖昧に頷き、宿題があるからと部屋へ向かった。「もうすぐ夕ご飯だからね~」 そんなお母さんに、なんだか罪悪感が募る。(別に、私が悪い訳じゃないし……!) だけど、先輩のあの目を思い出すと、ぞくりとした何かが這い上がってくるようで、私は怖くなってきてしまう。ドキドキと、心臓がうるさいくらいに鳴って、私は呼吸さえままならない。(走ってきたから……そう、そうに決まってる……) 鞄を雑に投げ出してベッドに倒れ込むと、言い訳ばかりが浮かんできた。そんなものじゃないことくらい、分かってるのに。 ベッドで丸くなって呼吸を整えていると、不意にスマホが鳴った。立ち上がるのも億劫だったけど、もしかしたら部活の連絡かもしれないし、私は溜息を吐きながら、鞄に手を突っ込む。(あれ……眞鍋さん……?) どうしたのかと出てみると、いきなり眞鍋さんの声が耳を劈く。「ちょっと! 凜くん無事!?」 思わずスマホを耳から離すと、私の名前を連呼する、でも心配そうな声が聞こえた。「眞鍋さん、落ち着いて。どうしたの? 無事って……私のこと?」 尋ねる私に、眞鍋さんは勢いよく『当たり前!』と叫んだ。「だから落ち着いて! 耳が痛いよ……」 苦情を告げると、仕方がないなぁとスマホの向こうで溜息が聞こえた。『あのね! 今日、なんかすごい走って帰ってたよね? それ見て不安になっちゃったんだ……私、瀬戸先輩に凜くんはどこだって聞かれたの』 思いがけない言葉に私はギョッとした。今まさに先輩のことで胸が大騒ぎなのだから。
『俺』と『ボク』 どっちかなんて、選べるはずない。 だって、どちらも先輩なんだもの。「ねぇ、凜ちゃん。昔した約束、覚えてる? お嫁さんになってくれるって、約束したよね?」 ずいっと顔を近づけてくる先輩は、私の心を見透かすように瞳を覗く。「あの、それは……」 覚えている、というか、さっき思い出したんだけど。 幼稚園の頃、私は同じクラスの男の子に『男女』と呼ばれ、からかわれていて、よく泣きながら校庭の隅に座り込んでいた。それを見たゆうちゃんが傍で慰めながら『お嫁さんになって』と笑いかけてくれていたんだ。 私は『うん』と応えていたけど、意味が分かっていなかったのが実情で……。 冷や汗を流しながら視線を逸らす私に、先輩は目を細め、ずいっと顔を近づける。「本気にしてなかったみたいだな……」 その額には、うっすらと血管が浮き上がっているような……。 でも先輩は、ふぅっと肩の力を抜き少しの距離を取る。「ま、いいや。これから挽回すればいいだけだし」 そう言いながら指を絡め、薬指をなぞった。「指輪、買わないとな……あーでも生活指導に取り上げられるか。ネックレスに通せばイケるか……?」 ぶつぶつと呟く先輩に、この機を逃せば逃げられないと悟った私は、勢いよく万歳をして先輩の手を振りほどくと脱兎のごとく駆けだした。 先輩がどんな顔をしているかなんて気にする余裕もない。 必死に商店街を走り抜ける。 道行く人々が何事かと振り返り、中には部活の後輩もいて、私を指さし『何やってんすか!?』と声が投げられた。 それにも構わず、私はひた走る。 だけど――。「なんで逃げるんだよ!?」 まさかのまさか。 先輩は猛烈な速さで迫ってくるではないか!「いやぁぁぁっ! なんで追いかけてくるんですか!?」 剣道部は足が基本。走り込みで鍛えたその足に、先輩は易々と追いついてきた。「ふざ
「な、ななななんで、そんな」 先輩の真剣な瞳に射抜かれ、私は動揺を隠せずにテンパっていた。だって、いきなり『惹かれていた』なんて言われたこともないし、こんなシチュエーションも初めてなのに。 及び腰になる私に対し、先輩はしっかりと手を繋いで、あどけなさの中に異様な色気を滲ませて迫ってきた。「逃げちゃダメだよ、ちゃんと聞いて」 手を振りほどこうにも、小柄な体からは想像の付かない力で優しく拘束される。私の方が10cmは身長が高いにも関わらず、逃げ出すことができない。「ボクね、幼稚園の頃から凜ちゃんが好きだった。でも、ちょっとした行き違いがあって、忘れてたのが悔しいよ。覚えていたら『オウジサマ』なんて呼ばせない、凜ちゃんはボクのお姫様だもの」 その声は低く響き、私を捕えていく。「今もね、思い出したらいてもたってもいられなくて、凜ちゃんを探してたんだ。アイツらにも協力してもらおうとしてたところに凜ちゃんが現れるんだから驚いちゃった」 言葉遣いこそ可愛らしいけど、なぜか少し怖い。「あ、あの、先輩……どうしたんですか? らしくないって言うか。手も、こういうのは慣れていなくて、ですね」 冷や汗をかきながら、なんとかこの危うい雰囲気を壊そうと試みる。でも、それとは逆に、先輩は更に指を絡めてきた。(これは……何と言うか、くすぐったいし、恥ずかしい……) 周囲に視線もどこか変わってきたように感じる。 私は今まで好意を寄せられることはあっても、男女の仲に発展したことがなかった。告白もされたことがない。だから、こういう時どうすればいいのか、全く分からず、挙動不審になってしまう。「凜
商店街を行く人々の視線が、チラホラと私達に向けられているのが分かる。こんなに人が多い所で話し込んでいたら気になるのも当然だ。 ただでさえ夕方の商店街は人が多く、年齢層も幅広い。買い物に来ているのだろう主婦や、学校帰りの学生は、これから塾があるのかもしれない。少しずつ、会社帰りと思われるスーツ姿の人も増えてきた。 でも、私の意識は目の前の先輩に注がれている。何か言いたげな先輩は、私の手を取るとポツリと呟いた。「凜ちゃん、かっこよくなったよね。昔は泣いてばかりだったのに」 そう言って笑う。 (え? 昔って……) まさか、と目を見開く私に、先輩はずいっと顔を近づけてきた。「ゆうちゃん」 その一言に、私は呼吸が止まる。(そんな……都合がいいこと、ある訳が……) 私は心のどこかで、ゆうちゃんが先輩ならいいのにと思っていた。だって、私はゆうちゃんが好きだったから。 だから、先輩がゆうちゃんであってほしいと思ったんだ。「保健室で凜ちゃんが寝てるとき、ずっと呼んでたんだよ。覚えてる?」 確かにあの時、ゆうちゃんのことを思い出していた。でもまさか寝言を言っていたなんて……しかも聞かれてしまったのは恥ずかしすぎる。 羞恥心で顔が熱くなるのが分かり、私は俯いてしまう。「顔真っ赤」 からかうように覗き込んでくる先輩だけど、その瞳は柔らかく細められていた。その視線から逃げるようにして、顔を背けると、しつこく追いかけてくる。「な、なんなんですか!? 先輩には関係ないでしょう!?」 むきになって、つい思ってもいないことを口走ってしまった。その言葉を待っていたと言わんばかりに先輩は胸を張る。「関係あるよ! だって、ボクがゆうちゃんだもん」 ついに、先輩が確信を突いた。それは望んでいた答え。 でも――。「先輩が……ゆうちゃん……? それなら、何故言ってくれなかったんですか? 私もさっき思い出したばかりだから、文句は言えませんけど……教えてくれてもいいじゃないですか」 そう問いかけると、先輩は眉を垂れて申し訳なさそうに応える。「うん、ボクもさっき思い出したんだ。凜ちゃんが教室に帰った後、ボクも倒れちゃって。凜ちゃんが言ってた『ゆうちゃん』がきっかけだよ」 先輩も、思い出した――?「ボクさ、幼稚園でのこと、丸っと忘れてたんだ。だから凜ちゃんにも
第31話 慌ただしく去っていった彼らに目もくれず、先輩は私だけを見ていた。「……驚いた、よね? ボクの本性が、あんなだって……」 眉を垂れる姿は、いつもの先輩だ。唇を噛みしめる表情は、沈み始めた夕日に照らされ悲壮感を増している。とてもさっきまで乱暴な言葉を吐いていた人と同一人物だとは思えない。 私が知っているのは、可愛くて、優しくて、でもどことなく陰を感じる、そんな先輩だ。まだ出会って2日、その正体が、なんとなく分かった気がする。 だけど、それを知ってもなお、私は先輩を疑っていない。本性だなんて言っているけど、それだって先輩の一部だ。人は相手によって態度を変える。それは悪いことではなくて、使い分けているだけ。 友人に対する顔。 先生に対する顔。 家族に対する顔。 全部ひっくるめて、ひとりの人間なんだ。 私は、先輩を通してそれを知った。 今まで当たり前だと思っていた『王子様』という役割は、私の心ひとつでどうにでもなるんだって。 求められる『王子様』を演じなければ、いつもお母さんは私を怒鳴りつけた。ヒステリックに泣き叫んで、物に当たり散らす。その様子は、幼心にトラウマを植え付けるには十分だった。 だけど、それよりも、上手くできた時のお母さんの笑顔が好きだったんだ。ぎゅって抱きしめて、『私の王子様』って、すごく嬉しそうに笑う、その顔が。 他の子もそう。 私を『凜くん』と呼ぶ眞鍋さんは、すごく可愛かった。だから、私が我慢すればそれでいいと思ってたんだ。